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佐藤書評への反論

※佐藤氏の書評は生物多様性研究会ホームページに掲載
「★書評☆『社会科学』はブラックバス問題を解決できるか―青柳純著「ブラックバスがいじめられるホントの理由」をめぐって― 佐藤陽一(徳島県立博物館)」(生物多様性研究会)
http://www.ne.jp/asahi/iwana-club/smoc/report-c2.html


【1.限定的駆除策の幻想】について

 佐藤氏は、完全駆除、棲み分け、限定的駆除、何もしない――という対策選択肢の4区分について、このうち限定的駆除は同一階層に属するものではなく、比較しても何の意味もないと言う。
 確認しておくが、外来魚問題における棲み分け論とは、完全駆除に対抗して唱えられるもので、外来魚を限られた水域に封じ込めようというものである。既に多くの水域に広まった外来魚を限られた水域に封じ込め、その状態を継続することが相当な困難を伴うことは明らかで、その点を駆除派は批判するのである。
 ところが奇妙なことに、その駆除派が唱えるのは大抵は完全駆除論なのである。常識的に考えて、完全駆除が棲み分けより容易だということはまずあり得ないはずである。そもそも完全駆除ができるのならば、それは外来魚の生息をほぼ完全にコントロールできるということだから、棲み分けだってできるという話になってくる。
 なぜこんな妙な議論になっているか。駆除派は外来魚問題への注目を高めるために、外来魚が環境にとって大きな脅威なのだ、それゆえ完全に駆除しなければ問題は解決しないのだと訴え、一定の注目を得ることに成功した。それに引っぱられた擁護派も、バス釣りの継続を確保しつつ環境への配慮を示すために、外来魚の生息場所を限定する棲み分け論を示した。僕の理解では、完全駆除論と棲み分け論はこのような出自のはずである。そもそもの完全駆除論が非現実的であるにもかかわらず、「環境」とか「生態系」といった言葉のトッピングによって真面目に取り扱われてしまった。それに対応するため非現実的な棲み分け論が出てくるに至ったのだと思われる。
 もちろん、完全駆除や棲み分けが絶対に不可能だとは限らない。「技術的に不可能」と言われていたことが覆るのはいくらでもある話で、完全駆除や棲み分けが現実的に可能になることもあるかもしれない。
 しかし、それが3年先とか5年先という時期だとは考え難いし、費用を出すことになる行政にもそんな余裕はない。人間の健康が脅かされるということであればまた話は別かもしれないが、そういう話ではないから、一挙に巨額がつぎ込まれることも考えにくい。費用が出てこなければ技術開発だって進まない。季節が一周するのに1年かかる野外ですることだから、室内で繰り返し実験ができることと違って、なおさら時間がかかるだろう。
 そこで出てくるのが限定的駆除という話で、限られた費用をより意味のある場所に集中して使いましょうという話である。そして、その結果を後々生かせるようにきちんとモニタリングをしましょうというものだ。
 僕の知る限り、現状で行われている外来魚駆除ですら、「これだけの外来魚を駆除しました!」ということで終わっており、その後に外来魚が再び増えなかったのか、あるいは在来魚の生息量は回復したのかといった報告を目にすることはまずない。深泥池のようなモニタリングがされているのは例外的のようである。この状況で「駆除戦線」を拡大したところで、意味のある駆除ができるのだろうか。時間と費用を浪費するだけにならないだろか。そうならないために、今はまず限定的駆除をきちんと行うことが最も妥当であるように思う。
 限定的駆除は、将来、完全駆除や棲み分けに移行することも可能ではあるが、移行することは必須ではなく、移行しないまま長期継続しても何ら問題はない。僕の予想では、完全駆除や棲み分けが想定通り実現できるようになることは未来永劫まずあり得ないし、実現できるとしてもそれで得られる生物多様性的利益は費用に見合わないので、長期的にも限定的駆除を選択するのが最も合理的だと考える。
 しかし、将来的に完全駆除や棲み分けを目指すのだとしても、現段階での限定的駆除はそのための第一歩となり得る。だから、とりあえず今は限定的駆除をきちんとやって、その間に調査研究と議論を積み上げて、もし必要かつ可能であることが明らかになったのならば、完全駆除や棲み分けに進めばよいのではないか、それなら皆さん合意できるのではないかと提案しているのである。
 こうしたことから、限定的駆除が並列にはならないという議論は的外れである。そもそも、「棲み分け」と「何もしない」の間に選択肢がないのはどう考えても不合理ではないか。なぜ佐藤氏が同一階層に属さないという発想に至ったのか、よくわからない。

 費用対効果論は、それぞれの選択肢によって何が得られ、何を失うのかを明らかにする作業で、この検討なくして、対策の検討はあり得ない。費用と効果の各要因が確定的であればそれで判断すればよい。しかしそれが不確定であるから、別の切り口から、より妥当な選択をする必要が生じるのである。

 佐藤氏は、生物多様性条約の「生態系、生息地若しくは種を脅かす外来種の導入を防止し又はそのような外来種を管理し若しくは撲滅すること」という規定を示しているが、この規定は「締約国は、可能な限り、かつ、適当な場合には、次のことを行う」として列挙されている項目の1つだ。すでに定着してしまった外来種について、その悪影響に見合わないほどの費用を投じてまで対策を講じることが、条約の「可能な限り、かつ、適当な場合」という文言に該当するだろうか。そのような対策が公益に資するとも思えないし、広く受け入れられるとも思えない。

 「ブラックバスを大幅に公認する」という表現。この表現は駆除派の多くにも見られるものだが、新たに生物種を入れる場合は別として、既に定着してしまった生物種について何をもって「公認」となるのかが意味不明である。
 問題なのは、その生物種がそこにいるのか否か、排除することが合理的か否かのかということであり、人間が「公認」「非公認」と言っても仕方がないのではないだろうか。すでに定着し、今さら排除することが不合理な生物種について、いくら「非公認」と言っても、その生物種はそこに居続けるのである。民法や刑事訴訟法に時効制度があるように、一定の事実状態が長く続いた場合、その事実状態を尊重することもまた必要なことである。



【2.外来種の影響は等価か?】について

 「侵略的外来種」という言葉は、何に対して侵略的なのか明らかではないし、絶対的な悪影響を問題とするのか、利用価値が見込めればその悪影響は相殺されるのかも明らかでない。特定の外来種を問題視して扱う場合に便利な言葉だが、何をもって「侵略的」とするのかを明確にしないまま言葉を振りかざしても、意味があるようには思えない。
 仮にブラックバスやブルーギルが侵略的外来種なのだとしても、「日本の侵略的外来種ワースト100」「世界の侵略的外来種ワースト100」といったリストが作られているように、侵略的外来種もまた数多くある。ブラックバスやブルーギルはそのうちのごく一部である。単純計算すると、それぞれ100分の1にしかならないことになる。侵略的外来種の中でもその影響程度の大小に違いがあるとしても、ブラックバスやブルーギルが数倍、数十倍も突出しているとは到底思えない。実際にはこの他にも、侵略的外来種にリストアップされなかった数多の外来種がいて、それらの外来種も無影響であるということはあり得ないのだから、外来種全体からすると単純計算で100分の1以上に小さいことになる。
 小さいものを小さいと評価するのは当然のことで、それを「矮小化・相対化」と非難するのは不適切だ。実態以上に誇張することは問題解決には繋がらない。特定の問題を実態以上に誇張することは、並存する他の問題を矮小化し、全体としての問題解決を阻むことに繋がる。

 「川と湖沼の侵略者ブラックバス―その生物学と生態系への影響」(日本魚類学会自然保護委員会編)は、執筆時にフォローしている。ブラックバスの拡散については、「ブラックバスがメダカを食う」(秋月岩魚)の引用か、出典記載のない記述だったため、出典記載のあった「ブラックバスがメダカを食う」の記述を分析に用いた。外来魚がどのような影響を及ぼすかについては、少数の個別事例をもって一般的な説明をすることは妥当ではないと考えたため、生物学の教科書を探してそれを元に整理をした。もちろん個別事例を研究することは重要なことであり、「川と湖沼の侵略者」の編著者らに専門家として求められていることでもあろう。社会問題としての外来魚問題を解説する部分(6〜8章)は、具体的根拠を欠いた私的心情が混在する文章で、優先的に取り扱うべき重要な内容だとは思えなかった。



【3.密放流が拡散の主たる原因ではない?】について

 秋月岩魚氏の「ブラックバスがメダカを食う」は、「バスのフィールドを増やすことで経済効果を上げようとする人々や組織」がブラックバス拡散の主要因だとする主張をしており、瀬能宏氏も「川と湖沼の侵略者ブラックバス」で同書を引用している。確認しておくが、僕が疑問視しているのは、「バスのフィールドを増やすことで経済効果を上げようとする人々や組織」がブラックバス拡散の主要因であるという点であり、いわゆる「密放流」が一定程度あったことは否定していない。
 佐藤氏は、泥棒を例にして、自白するわけがないだろうと言う。確かに、個人レベルならずっと伏せておくことも可能かもしれない。しかし、組織で大規模にやり、それが主要因だという話である。
 どんな組織でも様々な人間が集まるわけで、内部告発がされたり、証拠となる文書が流出したりするものである。北海道警の報償費不正支出疑惑のように、警察ですらどこかから文書が出てきてしまう。また、組織内でその行為を完結させることも難しい。雪印食品牛肉偽装事件における西宮冷蔵のように、外部の関係者から告発されてしまう。
 ところが、外来魚問題でこれまでに出てきた「密放流」の事例は、個人レベルのものばかりで、それ以上のものは噂レベルでしかない。釣り関係者の情報管理体制が警察組織以上だとは考えがたい。
 もちろん、無秩序に放流が行われたことは事実だし、個別事例を積み重ねれば一定の規模になるだろう。そんなことはわかっている。しかし、それが主要因だったとする根拠は見当たらない。一部の特徴的な事例を一般化してしまっていないか、「実例」や「実感」を積み上げて整理・考察し、検証する必要がある。地域や時期によっても要因は異なってくるはずである。そうした検証がなされないままに話を進めるのには危うさがある。
 「混入拡散の影響がそれほど大きいのであれば、ブラックバスもブルーギルも同程度の比率で分布しているはずだからである」と佐藤氏は言うが、琵琶湖でブラックバスが急増した1980年代後半は、湖産アユ種苗の生産量がピークとなった時期と重なる。琵琶湖でブルーギルが急増した1990年代後半以降は、冷水病などの影響で湖産アユ種苗の生産量が激減した時期にあたる。こうした要因を無視して、同程度の比率で分布しているはずだと安易に言うのには疑問がある。
 効果的かつ適切な対策を講じるためには、拡散要因を正確に把握することが重要なのは明らかで、不明確である部分は不明確だと認識しておくことが必要である。「密放流」ばかりを念頭に対策を講じた後で、実は他の要因のほうが大きかったということになってしまったら対策の意味がない。
 佐藤氏が「魚類学者は魚類学者の仕事をやる」と書いているのはまったくそのとおりで、ブラックバスに限らず様々な魚類の拡散要因をきちんと検証してまとめる作業をお願いしたい。魚類の分布域拡大は数十年前から顕著に起こっていたはずなのに、それについての資料は非常に乏しい。その状況で、「実例」だとか「実感」だとか言われても困ってしまう。
 「"仕込み"放流」説に言及したのは、信憑性に欠ける誇張された「密放流」話もまた流布されていて、どちらがどこまで事実か事実でないか判別不可能な実態があることを示すためである。密放流が継続しているためにブラックバスの生息量が維持されていると信じてしまう人まで存在するのだ。駆除派にあたる人たちが諸々の都合から「密放流」を喧伝した結果だろうが、実体を伴わない誇張された「密放流」話は、適切で効果的な対策を講じることには繋がらない。



【4.人間中心主義が優越したのか?】について

 佐藤氏は、引用した安井至氏の吉野川第十堰に関する記述から話を展開しているが、そもそも僕が安井氏の記述を引用した流れを整理する必要がある。それは、中井克樹氏が「環境をめぐる一般市民の価値観が大きく変わりつつある」とし、「すぐれて経済効果のある大型公共事業」よりも「自然環境」を一般市民が望むようになったということを書き、それゆえバス釣りの経済効果は認められない、ということを主張していたからだ。
 本当に「自然環境」を望むようになったのだとすると、自然環境のためなら何でもあり、社会システムの混乱やむなしになってしまうので、本当に中井氏の言うとおりなのか、その点を明確にする必要があった。
 そこで引用したのが、中井氏と逆の見解である安井氏の文章である。「逆の見解もありますよ」という例を示すための引用で、サンプル数やデータ解析がどうこうという話ではないから、それがないとかおかしいとかいう趣旨のことを言われても困ってしまう。元々の中井氏の文章にもその類の根拠はない。だから、文中でも、「考察している」「推測している」という表現を用いて、安井氏の見解が世論調査やアンケートによる数値ではないことを示している。
 そして、2つの異なる見解を並べたところで、いったいどちらが真実なのかという話に進む。もちろん、都合の良い文献があればそれを引っぱってくるが、人間の心情を定量的に表すことは容易ではないから、そんなものはまず存在しない。
 世論調査やアンケートをすれば、とりあえず数字は出るが、その解釈はとても難しい。佐藤氏は、吉野川第十堰に関する毎日新聞の世論調査結果を引用しているが、この種の調査の数字をそのままストレートに受け取ることができないのはよく知られたことである。
 例えば、日本で国政選挙の前に投票に行くかどうかを尋ねると8〜9割程度が行くと答えるけれど、投票率が80〜90%には決してならない。日本の民主党支持率は、通常、自民党支持率の数分の1程度だが、選挙ではそれなりの得票をする、などなど。
 佐藤氏が示した吉野川第十堰に関する毎日新聞の世論調査でも、「住民投票に行く」と答えたのは77%だが、実際の投票率は55%だった(※)。
 内閣支持率のように継続的に調査がされていれば、傾向や比較から分析することもできるが、単発調査の数字ではそれはできない。吉野川第十堰の場合、可動堰賛成派による投票ボイコットという異例の呼びかけまで行われていたわけだから、分析の困難さはなおさらである(佐藤氏はなぜかこの賛成派の投票ボイコットには触れずに、「結果は可動堰計画に反対91.6%、賛成8.4%という圧倒的な大差」とだけ書いているけれど...)。むしろ、選挙の情勢分析がそうであるように、経験と勘による考察の方が真実に近づけたりもする。
 そこで、現状で明らかな事実を元に考察をすることにしたのである。
 確かに、大型公共事業を見直す流れはある。しかし、一般市民が「自然環境」を他より優先して望むようになったという見方はかなり疑わしいと僕は思う。佐藤氏自身も書評中で、「吉野川は徳島県にとってシンボル的存在であったことから、この計画に疑問を持った市民グループが独自に調査したところ、可動堰化の根拠がひじょうに曖昧であることが次から次へと発覚した。そのため可動堰化反対運動の大きなうねりが生じ、ついには流域の徳島市で賛否問う住民投票が実施された」と書いているように、その公共事業の必要性が疑わしいことが明らかにされ、それによって反対運動が大きくなるケースがよく見られる。
 そうであるならば、「すぐれて経済効果のある大型公共事業」よりも「自然環境」を一般市民が望むようになったのではなくて、「すぐれて経済効果のある大型公共事業」なのかどうかが疑わしくなっただけの話である。
 こうしたことや、移入種対策として実際に対策が講じられている事例の検討から、充分な資料はなく更なる検討を要するものの、自然中心主義は大勢を占めるほどではないと推測されるので、その前提で議論を進めるとしたのである。
 もっと説得力のあるデータや資料があるならば、是非それを踏まえたうえで議論を展開したいものである。しかし、人間の心理はとても複雑である。本気で研究しようとすれば、それだけで時間と労力を費やす一大研究になる。分析が目的ならその研究を時間をかけてやるという話になるかもしれない。だけれども、外来魚問題は今ここにある。現状の限られた情報から、問題解決のためにもっとも妥当な方策を検討することが目的なのだから、データや資料の不十分さを批判するのは的外れである。

(※)
吉野川可動堰「住民投票に行く」77%−−毎日新聞電話世論調査
http://www.mainichi.co.jp/eye/feature/details/science/Environment/200001/19.html
徳島市の吉野川可動堰計画、「反対」が9割 住民投票成立−−建設中止を国に迫る
http://www.mainichi.co.jp/eye/feature/details/science/Environment/200001/24.html



【5.ブラックバス問題の所在は明らかにされたか?】について

ゼゼラ「ここからは硬くないほうがよさそうなので、ゼゼラ・カワウ方式で書くことにします」

カワウ「まず新発見がないという指摘ですが」

ゼゼラ「外来魚問題は議論の基盤が未成熟な分野なので、まずそれを整理することが必要なのです。基盤がないところで新発見をぶち上げたところで、あまり意味はないので、半ば強引に網羅的な基盤作りをしてみたというわけです。なので、各章の順序というのはあまり根拠がなくて、卒論をまとめる最後にコロコロと入れ替わったりしてたりします。全体のストーリーはそんなには重要視してないのです」

カワウ「次に、『「ホントの理由を明らかにするというからには新発見があるべきだろう』と」

ゼゼラ「そんなこと言われても、もともとのタイトルは『外来魚問題の構造と対策の検討』ですから。そのとおりの内容になってるでしょ。本のタイトルの『ブラックバスがいじめられるホントの理由』というは、実は『シンデレラがいじめられるほんとうの理由』(竹内久美子)がネタ元で、[竹内久美子―(京大日高研)―日高敏隆―(初代学長)―滋賀県立大学―(在学)―ゼゼラ]というスバラシク安易なネタ元でして...」

カワウ「竹内久美子かよ。あの人の本も生物学系の人の中ではいろいろと評価があるから、なおさらジャンクとか言われるよ、あはは」

ゼゼラ「で、漁業の位置付けの話ですが、これは琵琶湖の外来魚問題では、『琵琶湖の漁業は固有生態系と共存』とかいうことになっていたりで、指摘はわかりますが、それがどこまで一般化しているかというとあやしくて、これはきちんと整理しておく必要があるのです」

カワウ「次に『「釣り」と「漁業」との間の利害対立を調整する仕組みを構築しさえすれば、とりあえずの外来魚問題は収まってしまうはずだとした。しかしさすがにそのような解決はあくまでも表面的にすぎず、問題の本質はやはり生態系の撹乱と生物多様性の喪失にあると認めている。』というところ」

ゼゼラ「これはですね、漁業制度の枠組みの中でブラックバスが利用されていたら、そもそも問題になっていないだろうというのは、本当にそうだと思うんですよ。良くも悪くもそれが実態。でも、表向きは生物多様性の話があるから注目されているし、網羅的な議論をするためには生物多様性の話は外せない。このねじれがあるので、あのような展開になるわけです」



 まとめ

 最後に書いてから3ヶ月が経ってしまったが、改めて佐藤氏の書評を読んでみて思ったことは、佐藤氏はいろいろと細かい指摘を繰り返しているものの、議論の本筋であるはずの「いかにして問題を解決するか」という点について、具体的主張がないということだ。
 外来魚を問題視するだけでは問題は解決しない。実際にどのような対策を講じるかを考えなければならない。この論点は、外来魚問題の出口に位置する回避不可能な論点である。例えば、外来魚の生態系への影響といった論点は、不確実な部分があっても予防原則論などによって押し切ることができる。しかし、いくら理念を語って外来魚を問題視したところで、結局のところその理念を実現する具体的手段がないのであれば、理念の妥当性について結論を得る前に、実現不可能だという出口部分の結論が出てしまうのである。
 ところがこの論点について、いわゆる駆除派がほとんど口にしない。それは、現時点で実現可能性がそれなりに見込めるのは、限られた小規模水域での駆除程度で、それ以上のことは技術的にも費用的にも困難であるからだろう。だから、いくら理念を語っても、それを実現する手段がない。
 技術的な課題については開発が進む余地がないわけではないが、外来魚問題は人間に直接の被害を与える問題というわけでもない。優先順位は低くならざるを得ず、どこまで期待できるか疑問だ。仮に効果的な対策が可能だとしても、それによって得られる効果が、要する費用に見合うものであるかが問題となる。広範に対策を講じる場合、莫大な費用となることは明らかで、効果に見合わない費用となる可能性が高い。
 駆除派は、「完全駆除が不可能とは限らない」などと主張するのがやっとだ。この「完全駆除が不可能とは限らない」というのは、可能性が全く0ではないという意味で(性質上、費用などの制約を考えなければ可能性が少しは生まれるのは当たり前だ)、結局のところ具体策はなく、基本的にはこの論点から逃げる。
 こうしたことから、普通に考えれば、外来魚の排除を考えるよりも、外来魚が生息することを前提とした状況での対策を考えざるを得ないという結論に行き着く。ところが、駆除派的には擁護派を利することになる方向に話が進むということ自体がそもそも駄目らしく、「完全駆除は困難」ということを表立って認めることはまずない。
 現実を見つめないで対策を考えてしまったら、最終目的であるはずの在来種保護には繋がらないのではないか。「いかにして問題を解決するか」を具体的に語れる駆除派を待望する。

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