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瀬能書評への反論

※瀬能氏の書評は生物多様性研究会ホームページより

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★書評☆
「ブラックバスがいじめられるホントの理由」(青柳 純著、つり人社刊)を読んで
瀬能 宏
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 何かと話題の標記の本をざっと一読した。ひと言で言うなら、バス擁護のための詭弁に終始しているというのが率直な感想である。著者のホームページ(ゼゼラノートhttp://www.zezera.com/)の内容や同書での文章力から察するに、相当広範な情報収集を行い、またよく勉強しておられるようだが、生物学的なデータや議論がほとんど示されていない点にまず違和感を覚える。第6章では移入種によって何が起きるかの生物学的説明にいくつかの事例を引用しているが、あとがきで「外来魚によって何が起きているのかを的確に把握した上で、何のためにどんな対策を講じようとしているのかを明確にした取り組みを行うことこそが大切」と述べているのとは裏腹に、バスによる日本の在来生物への影響についての報告や論文等はまったく引用されていない。バス擁護のために非常に偏った情報の選択がなされているとしか思えないし、もしそうであるなら、自然科学に携わる者の立場からは論評に値しないレベルの内容であるが、私なりに特に気になった部分の感想を以下に記す。

第2章 外来魚移入の経緯
 オオクチバスの拡散要因とされる大規模密放流には確証がなく、密放流の事実は認める一方で、琵琶湖産アユ種苗への混入による拡散も一定規模あったはずであると述べている。そしてどちらがどの程度拡散に寄与したかはわからないとしている。もちろん私も種苗への混入があったであろうことは否定しないが、大規模密放流によるまでもなく、全国への拡散の大部分が釣り目的の密放流によるものであることは明白であり、文章構成に密放流問題を矮小化する意図を感じる。密放流が拡散の主因と考える理由は次のとおり。
1 連続する水系や、同一水系内でも通常は人為的にしか移動できない水域をそれぞれ一箇所として考えると、溜め池やダム湖、公園の池やビオトープなど、アユやへらぶな種苗が放流されていない水域の数は、それらが放流されている水域の数をはるかに上回ると予想される。長野県水試の報告によると、オオクチバスが分布する55市町村中、密放流以外に説明のつかない水域を含む市町村が28あるという。なお、この問題の本質は種苗への混入を問題視する以前に、その原因を作ったのは琵琶湖への密放流であったことを忘れてはならない。
2 芦ノ湖では1平方キロあたり約13尾の放流で定着したことからわかるように、池のような小規模水域では、ごく少数の雌雄がいれば定着できるだけの生物学的特性(食性や繁殖生態など)を持つ。
3 琵琶湖でオオクチバスが初確認された1974年当時、すでに23都府県に拡散していた(ただし、移入経緯の明らかな密放流によらない6県を含む)。
4 アユやへらぶなの種苗放流とは無関係のコクチバスの場合、1991年に野尻湖で初確認されてから2000年までのたった10年で27都県に分布を拡大した事実があること。

あげられている「理由」は、結局のところあまり「理由」になっていないように思う。

 理由の「1」。
 あまり明確な根拠もなく「はるかに上回ると予想される」と言われても困ってしまう。ビオトープはともかく、溜め池、ダム湖、公園の池にヘラブナを放流するというケースはごく普通にあるのではないだろうか。また、ダム湖上流でアユの放流をするケースも普通にあるだろう。アユの放流は遡上がなくなったり減ったところで盛んに行われるものなのだから。どうするとそのように予想できるのだろうか。
 「長野県水試の報告」というものに筆者は目を通していないが、瀬能氏の書き方からすると、55市町村のうち28市町村に密放流以外に説明のつかない水域が少なくとも1つあったという意味になる。ということは、その28市町村にも密放流以外に説明のつく水域がないわけではなく、残りの27市町村には密放流以外に説明のつかない水域が1つもないということになる。そうだとすると逆に密放流があまりなかった「理由」になってしまうのではないだろうか。
 混入の問題の本質は、「琵琶湖への密放流」にあるのではなく、種苗放流という行為それ自体にある。琵琶湖にバスがいなくとも、琵琶湖固有種をはじめとする琵琶湖に生息する魚類を全国に撒いてしまうという事態が起こったことには変わりはないのだ。

 理由の「2」。
 これは、放流種苗への混入の場合にも「理由」となることで、密放流が多数であった「理由」にはならないだろう。「混入」である以上、極端に多数が混ざることは考えにくい。その中で定着に至るかどうかという議論になることは密放流の場合と同じである。

 理由の「3」。
 都道府県単位で数えると、都道府県域の中で1か所でも生息していれば、「1」と数えることになってしまう。1974年当時の生息状況は、都道府県域の中でも限られて場所に生息しているというレベルだっただろう。しかし、今、バスが問題にされるのは、そういったレベルではなく、1つの都道府県の中でも実に様々なところにバスが拡散したということであり、議論しているのはその原因のはずである。だから、1974年当時の、しかも都道府県単位で数えたものを根拠とするのは少し無理があるのではないだろうか。
 また、琵琶湖の話がされているが、ヘラブナはアユと違い、琵琶湖に生息しているものを他の湖沼河川に持っていっているわけではない。大阪府の溜め池を中心に養殖されたものが各地に放流されたものである。

 理由の「4」。
 「2000年までのたった10年で27都県に分布を拡大した事実」という断言には疑わしい部分がある。この数字は全国内水面漁業協同組合連合会調査のものと思われるが、最新のこの調査結果を見ると、コクチバスが生息しているとする106の湖沼河川のうち11河川で、1990年以前からコクチバスが生息していたとするもので、信憑性に疑いを抱かざるを得ない。おそらくこれは、所属の下部組織に対して調査用紙に記入をさせる方式で調査を行い、オオクチバスとコクチバスの違いがよくわかっていない人にもそのまま調査用紙を書かせているため、オオクチバスをコクチバスと誤認するケースが含まれていると推測される。だから、この調査は実態よりも過大な結果になっていると思われる。
 また、ここでも都道府県単位で数えるというやり方に注意しなければならない。都道府県域の中で1か所でも生息しているという状況と、都道府県域の中で多くの場所にコクチバスが生息しているという状況とには大きな違いがある。27都県という数字は疑わしいわけだが、仮に27都県にコクチバスが生息しているとしても、個々の都県の状況を見れば、その拡散の程度はオオクチバスには明らかに劣るはずだ。しかしこの数え方ではどちらも「1」とカウントされる。
 もちろん、コクチバスの場合は混入は考えにくい。しかし、いまだ限られた場所にしか拡散していないコクチバスの事例をもって、オオクチバスの拡散に当てはめるのには無理があるのではないだろうか。

 改めて確認しておくが、筆者の主張は、全国各地の実に多くの湖沼河川にバスが拡散したという事実の全体について、瀬能氏のような密放流が主要因であったとする主張には客観的な根拠は見当たらないというものである。密放流がなかったという主張をしているわけではないし、そういう結論に誘導するつもりもない。客観的な根拠もなしに決め付けるのは問題解決にとって有害であり看過できないと思うので、根拠に欠けるのではないかと主張しているのである。

第6章 何が本当に問題か、対立の構造
 この章では多くの頁を割いているにも関わらず、生物多様性保全に関わる人々の動きについての取材不足を強く感じる(単に無視しているだけかも知れないが)。基本的に漁業被害の問題を重点的に取り上げており、生物多様性への影響については漠然とした問題であるためなかなか理解しにくいと述べるにとどまっている。侵入生物に対する著者のスタンスは、それが潜伏期から爆発的増加期を経て、やがて在来種からの影響を受けて安定期を迎えるという一般論に立脚している。バスは侵入してもやがて安定するから大丈夫というわけだ。しかし、このような論が日本におけるバスの侵入のケースで当てはまらない事実を著者はなぜ無視するのであろうか。例えば伊豆沼におけるゼニタナゴのような希少淡水魚の地域絶滅の事実をどうみるのか。捕食による希少トンボの絶滅の危険性をどう評価するのか。こうした事実によらずとも、これまでに明らかにされているバスの生物学的特性から侵入による種や生態系への影響が看過できないレベルにあるであろうことはあまりに明白である。広範な情報を集めている著者が、最近のバスに関する生物学的な論文や報告を引用していない事実が意図的でないとすると(意図的ならこの本はまったく信用ならないということになろう)、バスの生物学的特性や、在来生物への影響、そして在来生物そのものについての知識がほとんどないまま論理が展開されていると言わざるを得ない。琵琶湖についても、オオクチバスは少ない数で安定している、琵琶湖における在来魚の減少が外来魚によるものであることを示す確たる証拠はないといった「歯切れ良い」言葉がならぶが、それを言うならせめて既存の資料を引用し、どこがどうだめなのか、どこまで説明されれば影響があると言えるのか、自然科学的立証手法を理解したうえで批判をくわえるべきだろう。対立構造の図式化はわかりやすく参考になるが、生物多様性の保全に関わる人々の位置づけが人間活動の枠組みの中から漏れている点は完全な誤りであり、現実からかけ離れた歪んだ見方と言えるだろう。対立は「生物多様性そのもの」との間にあるのではなく、「生物多様性保全の理念」との間にあると認識すべきであるがいかが?

 どうも瀬能氏は、自身が持っている擁護派像と筆者の主張を混同しているように思われる。筆者は「安定するから大丈夫」とは言っておらず、「ブラックバス・ブルーギルの場合は、この「捕食」によって在来種に影響を与え、在来種の数を減らしたり、場合によっては全滅させると考えられている」(44ページ)と書いているし、各図表でも「釣り人・釣り業界」と「生物多様性」との間に対立関係があると明確に示している。
 個別の事例を持ち出さないのは、一般に流布される「影響」の事例が、本当にブラックバス・ブルーギルの影響であるかどうかはわからないからである。それぞれの事例には、ブラックバス・ブルーギル以外にも様々な要素が絡み合っているはずで、1つの報告をもって決め付けて議論を進めることには問題がある。ただし、理屈として影響を与え得るのは確かであるから、一般論として、影響がないということはない、ということにしているのだ。
 個別の事例を前提に議論を進めると、その個別事例に疑義が生じた時に、積み上げた議論がすべて崩れてしまう。そんなことをしていたらいつまで経っても話が進まない。だからこの本では、そうならないように、一般論で議論を展開するようにしているのである。
 こうした考え方は、自然科学を守備範囲とする方々には不満かもしれない。しかしこの本のサブタイトルに「環境学的視点」とあるように、純粋な自然科学で事を論じているのではない。「プロジェクトX」ではないのだから、「生物多様性保全に関わる人々の動き」の人間ドラマを描くこともしない。様々な不確実な情報の中で、現時点において、問題をどう捉えてどう解決するのがもっとも妥当なのかということを言っているのである。
 ところで、対立が「生物多様性そのもの」との間ではなく、「生物多様性保全の理念」との間にあることにしてしまうと、「生物多様性」の重要性の本質が趣味的主張にあるということになってしまうのではないだろうか。あくまで「生物多様性そのもの」の重要性が存在するから、「理念」が生まれてくるのではないかと思われるのだが。

第7章 生物多様性の価値評価と対策の検討
 生物多様性の喪失は問題であるとする意見が自明であるかのように言われるが、著者はなぜ問題なのかが自明にされているとは言い難いと言う。そして、その回答を生物学者や魚類学者、釣り関係者に求めるのは酷であると言い切る。いったいどこからこのような傲慢な物言いが出てくるのか。そしてその回答として自然中心主義と人間中心主義という二元論も持ち出す。前者は多様性の維持自体に意味があり、後者は人間のために多様性を維持する考え方であると回答する。このような教科書的回答を示すだけでこれだけ見下されてはたまらない。著者はまた移入種問題は移入種の数だけ存在し、外来魚問題はその中のひとつに過ぎないと図を示しながら解説している。どうやら生物多様性の保全を唱える人たち(著者のいうところの自然中心主義者=我々のことか?)は、移入種の数だけ均等に対策を講じねばならないと誤解しているようである。そして著者は、自然中心主義は社会的な理解が得られないため、人間中心主義を前提にしたバス問題解決の方策として、バスを有効利用する一方での「限定的駆除(在来魚保護域設定)」を強く推奨している。「守るべきものを守る」、「守れるものを守る」という考え方である。これが完全駆除やすみ分け(ゾーニング案)よりも費用対効果の面で優れているという。
 しかし、このように大仰に言わずとも、生物多様性条約や生物多様性国家戦略は、自然の持続的利用という意味で著者のいうところの人間中心主義そのものであるし、我々は自然中心主義を理想としながらも、実際にはそれを人間活動の範囲内での努力目標として位置づけることで大方の合意が得られているわけである。庭先の植木鉢の下にいるオカダンゴムシを撲滅させろなどとは誰も言っていないのである。著者が強く推奨している限定的駆除策にしても、琵琶湖における取り組みは限りなくこれに近い考え方であるし、何千箇所もあるかも知れないバスの生息域を一律に撲滅させるなどという途方もないことを主張する人は皆無に等しい。現実問題として、希少生物の絶滅の危険度や漁業被害などの大きさから必然的に優先順位が付けられ、結果的に限定駆除的にならざるを得ないのである。ただし、著者が主張するようにバスの有効利用が現行の釣りのスタイルで認められるかどうかはまったくの別問題である点には留意しておく必要があるだろう。最後に、この本の副題に「環境学的視点から外来魚問題の糸口を探る」とあるが、生物多様性の保全をめぐる社会の動向から大きく逸脱した時代錯誤的内容であることを強調しておく。

 瀬能氏は本書の記述を「傲慢」で「教科書的回答」しか書かれていないとしているが、本書ではその「教科書的回答」を出発点に解決策の選択肢を検討する作業を試みている。瀬能氏らに不足していると筆者が感じるのは、この点である。瀬能氏らは、自らの理想と、公益を最大化するための現実の解決策を混同しているように思われる。その結果、要する費用や問題の位置付けをそっちのけに、完全駆除こそ解決策であるという理解を一般にさせている。この混同を整理することがまず重要なのである。

 ところで、この書評によると、瀬能氏らは「自然中心主義を理想」としながらも、それはあくまで理想であって、現実的には人間中心主義的視点から限定的駆除にならざるを得ず、完全駆除が非現実的であることを一応は認識しているようである。しかし、「現行の釣りのスタイル」による「バスの有効利用」に問題があるために、瀬能氏らはバスの有効利用を前提としたいわゆるゾーニング案に反対していると理解できる。そうであるならば、瀬能氏らはその点をきちんと主張すべきである。本音と建前がある議論をしていては、いつまで経っても問題の解決には繋がらない。

 また、何か問題があるのだとすれば、その問題自体を個別具体的に検討すべきなのであって、「社会の動向」から逸脱しているかどうかで評価を下すのは危険な発想だ。もちろん生物多様性の考え方を考慮することは必要である。しかし、「社会の動向」だからとそのことばかりを気にして大騒ぎすると、結果的に全体として不利益を生むことになる。本書のまえがきで触れた、度を越えた「ダイオキシン騒動」の話と同じである。少なくともブラックバスとブルーギルに関しては、過去の公害問題のように人間の健康に影響を及ぼすかと言えばそういうものではないし、レイチェル・カーソン「沈黙の春」のように生物がいなくなる話かと言えばそういうものでもない。在来魚がいなくなってもブラックバスとブルーギルはたくさんいるという話なのだから、問題と言えば問題だけれども、比較的大したことがない話なのだ。その程度のことに対して、完全駆除だと言って大金を投じかねない状況に疑問を呈するのが本書の意図である。比較的重要度の低い問題への「対策」で限られた費用を溶かしてしまうことは、環境問題全体の解決にはマイナスなのである。

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